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おはようございます。
立札の後ろにあるお地蔵様に、
天正2年(1574年)5月に幸隆の死去に伴い正式に真田家の家督を継いだ信綱は[4]、その一年後、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いに真田の兵を率いて参戦した。三尺三寸の陣太刀・青江貞を振って奮戦し、馬防柵を次々なぎ倒しながら敵陣に迫るが鉄砲部隊の銃撃によって弟の昌輝と共に戦死した[4][1]。享年39。設楽原古戦場に残る墓碑には、『真田源太左衛門尉信綱の碑』と刻まれている。
真田家の家督は勝頼の命令により信綱の幼児らに受け継がれる事は認められず、武藤家を継いでいた同母弟の昌幸が継承した。法名は信綱寺殿天室道也大禅定門。
信綱を討ったのは徳川方の渡辺半十郎政綱(渡辺半蔵守綱の実弟)だと言われるが[註 1]、実際には織田信長配下の柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉ではないかとする説もある。信綱の首は着用していた陣羽織に包まれて、家臣(近習)の北沢最蔵と白川勘解由が甲斐に持ち帰ったといい、この「血染めの陣羽織」は上田市の信綱寺に収蔵されている。なお、この2人は信綱を追って殉死し、その忠義を賞されて北沢家には300石、白川家にも200石が与えられた。
なお、信綱寺は、信綱の弟・昌幸が、位牌所として建立した寺で、この南には古城と呼ばれる尾根がある。ここは中世に真田氏が居館を構えていたと言われる由緒のある地である。
おはようございます😃
甘利信康のwiki⬆︎
なんでも、地元の伝承によると、信康は柳田前激戦地を担当していた。武田軍が敗れ撤退を始めると、信康は織田・徳川方の防御陣地づくりに協力した柳田地区の住民を呪いつつ、庄屋の屋敷門扉に寄りかかり、立ったまま切腹したという[7]。
次に向かうは、甘利信康の墓の上に向かうと
内藤修理昌豊の陣地跡、お墓
内藤修理昌豊‼️
wiki
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E6%98%8C%E8%B1%8A
天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いでは、原昌胤・山県昌景とともに左翼に配置され、西上野国衆を相備にしていたと考えられている[12]。『甲陽軍鑑』によれば内藤隊は織田軍本隊と戦い、また『本多家武功聞書』によれば本多忠勝と戦ったとしているが、不明[12]。『甲陽軍鑑』によれば、武田勢が敗退する中、昌秀は馬場信春とともに勝頼を戦場から逃すため踏みとどまり、徳川家臣・朝比奈弥太郎により討ち取られたという[13]。享年54。
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つづく‼️
⬆︎に真田安房守もあります。